タイピングを速く打てる為に始めたこのブログ。
第十章【こんな暑くても秋なの?編】
最初から最後までぐだぐだ。
弟が珍しく難しい面してるから
何してんだと覗けば…
折り紙だと。
更によく見れば何折ってんだかわからん。
鶴やくす玉ではない。
ぐやぐやの意味不明物体。
私は見なかった事にして即退散した。
…しかし何折ってたんだアイツ…
長いです。
実は今日、某有名デパートに行ったんです。
いつものルートでいつものお買い物。それだけだったんですが、今日は少し違いました。
とある店員さんがエスカレーター前でお弁当売っていたんです。
そのお姉さんはよく知っている魚屋さんのお姉さんで。
お姉さんは移動して今の魚屋さんにいるのですが、数か月前までは違う魚屋さんの方でした。
移動した後お会いしてなかったので、少し挨拶したんです。
その時お姉さんが妊娠していることを聞きました。
ええ!おめでとうございます!! それが自分が言った第一声で、それ以上は何も。。
とにかくおめでとうと言っていました。
お客と店員さん、それだけの繋がりでした。
でも気持ちをちゃんと込めておめでとうを言いました。
お姉さんの笑顔も見れたし、お弁当も買ったしで、笑顔でさよならしました。
お姉さんはもう少しで仕事を辞めてしまう事も話してくれたので、心を込めてさよならしました。
その後は、本当にいつも通り。
買い物して、父と連絡取って・・・。なんら変わりない本当にいつも通り。
でも母だけが違ってました。
駐車場に向かう為の通路に入る寸前、母が立ち止ったんです。
そしてとあるフルーツ屋へ。
滅多に足を運んだ事ない果物のお店に母が入って行きました。
買い物リストに全く無いし、聞いてもいなかったので私はびっくり。
え、え、何買うの!?とずっと声に出してました。
母はとあるフルーツ持って、会計済まして。
そして言いました。
「あのお姉さんにお祝いとして、持って行ってあげて」と。
今日一番のびっくりでした。
正直に言ってしまうと「母がお祝い出す程交流があった方ではないのに」と思いました。
薄情かもですが、実際本当にそう思いました。店員とお客の間柄でしたし。
でも母は笑って私に果物を渡すと、そのお姉さんのところまで背中押しました。
まだ私はどうすればいいのかわからないような足取りでした。
その途中、母がポツリと言った言葉に考えがガラリと変わったんです。
あまりの驚きで全部を思い出せませんが、とても強烈に「縁」と「一期一会」という言葉が残っています。
友人家族親戚以外で、損得抜きに考えたのは初めてでした。(今更ですが私は卑しいです)
母の言葉に驚いたけれど、それよりも純粋に祝いたいと思う気持ちがガンと増えました。
目から鱗みたいな感覚でした。
あまりに綺麗な感情だったんで自分が理解するのが少し遅くなってしまいましたが;
笑顔で祝いの品持ってお姉さんのところに行きました。
そして気持ちの品を渡しました。
母の言葉に、私も純粋に思えた事を言いました。
もしかしたら誰にでも考えられる事なのかもしれません。
でもそれを行動に移せるかといえば、きっと誰もが出来る事ではないと思います。
私みたいに「あげる意味」を先に考えてしまう方もいるのではないでしょうか。
今日のあの瞬間、あのお姉さんの笑顔と涙を見た瞬間、自分がとても恥ずかしくなりました。
それと同時に物凄く嬉しくなりました。
街中ですれ違っても挨拶しないかもしれない、そんな私達の中で見えた笑顔が半端なく幸せに満ちていたからだと思います。
私と年がそんなに変わらないお姉さんの、母としての笑顔がとても綺麗で。
それを純粋に祝って笑う母がとても自慢に思えました。
お姉さんの笑顔が嬉しかったのは、私が想像もしていなかった程の笑顔を浮かべてくれた事と、その笑顔を引き出したのは俺の母なんだぞというささやかな自慢からです。
もう会えないかもしれない、そんな一期一会。
そんな短い時間の最後に見れた光景は見たことがない幸せの光景でした。
書きたい事が鮮明にあるのに上手く言葉に出来ません。
説明出来ないくらいの素晴らしい出来事でした。
多分言えるとしたら、母が起こした行動を実際に見て、最初よりも強く強く、心の底から想いを込めてお祝いした事が大事なのだと思います。
おめでとうございますと笑顔で言いまくった一回目よりも、ずっと深かった。
品物じゃないんです。品物を買うことで自分は気付きました。
お祝いの品って、お金掛かってるとかじゃないんですね。
その品物を手に持った時、それを持って目的の人まで行く道中、品物がお礼の言葉を浮かばせてくれたんです。
簡単に言えば、言葉のきっかけみたいな存在。
持っている事で自分が今何をするのか、お祝いをするんだ、心の中でストレートに浮かぶものは祝いの言葉。
重みのある、けれど暖かい存在なのだと今日思いました。
今日この日を私は忘れないと思います。
大袈裟でもいい。本当に純粋に足が進んだこの日に名前を付けたいくらいです。
私は先日23歳になりました。
成人を迎えて3年も経っています。
物事を自分で判断し責任持つ立場になって、もう3年。
自覚こそ当たり前でベテランにならなければいけないのに、言われても理解しないであろう事を実際に体感して勉強しました。
損得裏表まったく抜きです。
物をあげた、とかそういう事でもないです。
純粋の「笑顔」と「言葉」を学びました。
これは無意識にする事は私には難しいかもしれません。
でも、いつかこうなりたい、こんな大人になりたいと思いました。
もし自分が奇跡的に結婚出来て更にミラクルで子供が出来たとしたら、当たり前の常識や今日のような事を教えてあげられる親になりたいです。
さり気ない日常に幸せの断片を見つける事はあっても、それは直ぐに忘れてしまう事が多いです。
でもそんなさり気ない日常の中に、とてつもない幸せがあったら。
それはその幸せを見せてくれた方も、見せてもらった方も、もう一つの幸せの記憶として残るんじゃないでしょうか。
私は今日見つけた限り無い幸せを忘れません。
こんな年になって気付かなかった自分を情けなく思います。
お姉さん、お母さん、素敵な事に気付かせてくださってありがとうございました。
実は今日、某有名デパートに行ったんです。
いつものルートでいつものお買い物。それだけだったんですが、今日は少し違いました。
とある店員さんがエスカレーター前でお弁当売っていたんです。
そのお姉さんはよく知っている魚屋さんのお姉さんで。
お姉さんは移動して今の魚屋さんにいるのですが、数か月前までは違う魚屋さんの方でした。
移動した後お会いしてなかったので、少し挨拶したんです。
その時お姉さんが妊娠していることを聞きました。
ええ!おめでとうございます!! それが自分が言った第一声で、それ以上は何も。。
とにかくおめでとうと言っていました。
お客と店員さん、それだけの繋がりでした。
でも気持ちをちゃんと込めておめでとうを言いました。
お姉さんの笑顔も見れたし、お弁当も買ったしで、笑顔でさよならしました。
お姉さんはもう少しで仕事を辞めてしまう事も話してくれたので、心を込めてさよならしました。
その後は、本当にいつも通り。
買い物して、父と連絡取って・・・。なんら変わりない本当にいつも通り。
でも母だけが違ってました。
駐車場に向かう為の通路に入る寸前、母が立ち止ったんです。
そしてとあるフルーツ屋へ。
滅多に足を運んだ事ない果物のお店に母が入って行きました。
買い物リストに全く無いし、聞いてもいなかったので私はびっくり。
え、え、何買うの!?とずっと声に出してました。
母はとあるフルーツ持って、会計済まして。
そして言いました。
「あのお姉さんにお祝いとして、持って行ってあげて」と。
今日一番のびっくりでした。
正直に言ってしまうと「母がお祝い出す程交流があった方ではないのに」と思いました。
薄情かもですが、実際本当にそう思いました。店員とお客の間柄でしたし。
でも母は笑って私に果物を渡すと、そのお姉さんのところまで背中押しました。
まだ私はどうすればいいのかわからないような足取りでした。
その途中、母がポツリと言った言葉に考えがガラリと変わったんです。
あまりの驚きで全部を思い出せませんが、とても強烈に「縁」と「一期一会」という言葉が残っています。
友人家族親戚以外で、損得抜きに考えたのは初めてでした。(今更ですが私は卑しいです)
母の言葉に驚いたけれど、それよりも純粋に祝いたいと思う気持ちがガンと増えました。
目から鱗みたいな感覚でした。
あまりに綺麗な感情だったんで自分が理解するのが少し遅くなってしまいましたが;
笑顔で祝いの品持ってお姉さんのところに行きました。
そして気持ちの品を渡しました。
母の言葉に、私も純粋に思えた事を言いました。
もしかしたら誰にでも考えられる事なのかもしれません。
でもそれを行動に移せるかといえば、きっと誰もが出来る事ではないと思います。
私みたいに「あげる意味」を先に考えてしまう方もいるのではないでしょうか。
今日のあの瞬間、あのお姉さんの笑顔と涙を見た瞬間、自分がとても恥ずかしくなりました。
それと同時に物凄く嬉しくなりました。
街中ですれ違っても挨拶しないかもしれない、そんな私達の中で見えた笑顔が半端なく幸せに満ちていたからだと思います。
私と年がそんなに変わらないお姉さんの、母としての笑顔がとても綺麗で。
それを純粋に祝って笑う母がとても自慢に思えました。
お姉さんの笑顔が嬉しかったのは、私が想像もしていなかった程の笑顔を浮かべてくれた事と、その笑顔を引き出したのは俺の母なんだぞというささやかな自慢からです。
もう会えないかもしれない、そんな一期一会。
そんな短い時間の最後に見れた光景は見たことがない幸せの光景でした。
書きたい事が鮮明にあるのに上手く言葉に出来ません。
説明出来ないくらいの素晴らしい出来事でした。
多分言えるとしたら、母が起こした行動を実際に見て、最初よりも強く強く、心の底から想いを込めてお祝いした事が大事なのだと思います。
おめでとうございますと笑顔で言いまくった一回目よりも、ずっと深かった。
品物じゃないんです。品物を買うことで自分は気付きました。
お祝いの品って、お金掛かってるとかじゃないんですね。
その品物を手に持った時、それを持って目的の人まで行く道中、品物がお礼の言葉を浮かばせてくれたんです。
簡単に言えば、言葉のきっかけみたいな存在。
持っている事で自分が今何をするのか、お祝いをするんだ、心の中でストレートに浮かぶものは祝いの言葉。
重みのある、けれど暖かい存在なのだと今日思いました。
今日この日を私は忘れないと思います。
大袈裟でもいい。本当に純粋に足が進んだこの日に名前を付けたいくらいです。
私は先日23歳になりました。
成人を迎えて3年も経っています。
物事を自分で判断し責任持つ立場になって、もう3年。
自覚こそ当たり前でベテランにならなければいけないのに、言われても理解しないであろう事を実際に体感して勉強しました。
損得裏表まったく抜きです。
物をあげた、とかそういう事でもないです。
純粋の「笑顔」と「言葉」を学びました。
これは無意識にする事は私には難しいかもしれません。
でも、いつかこうなりたい、こんな大人になりたいと思いました。
もし自分が奇跡的に結婚出来て更にミラクルで子供が出来たとしたら、当たり前の常識や今日のような事を教えてあげられる親になりたいです。
さり気ない日常に幸せの断片を見つける事はあっても、それは直ぐに忘れてしまう事が多いです。
でもそんなさり気ない日常の中に、とてつもない幸せがあったら。
それはその幸せを見せてくれた方も、見せてもらった方も、もう一つの幸せの記憶として残るんじゃないでしょうか。
私は今日見つけた限り無い幸せを忘れません。
こんな年になって気付かなかった自分を情けなく思います。
お姉さん、お母さん、素敵な事に気付かせてくださってありがとうございました。